セミの亡骸を持って帰って捨てた話
僕は家族が管理しているマンションに住んでいる。そのマンションのエントランスにセミが落ちてた。
とっさに見なかったことにしてそのまま通り過ぎようかと思ったけれど、掃除をするのは家族の誰かである。これは見逃すわけにもいくまい。おそるおそる、足元のブツに手を伸ばす。
虫や、その死骸にふれること自体はどうというものでもないが、セミは別だ。奴らは死んだようでいながら急に壊れた玩具のように動き出す。僕は雰囲気ホラーは好きだが、ただただビックリさせるだけのホラーは大嫌いなのだ。
指でちょん、と突いてみると「ジジッ」と微かに聞こえたような気がしたが気のせいだった。よし。動いていない。よかった。
ちょんと哀れな亡骸を拾い上げ、それからはたと困ってしまった。どこに捨てよう。
なにしろ自宅である。近所の目もあるし、目の前の道路の真ん中に放るわけにもいくまい。土があるところがよさそうだ。うん、土に帰そう。
そう思い目を走らせると、マンションのエントランス外側の植木が目についた。植木の下は確かに土になっているが、そこに捨ててしまっては結局家族の誰かの手をわずらわせることになってしまい、解決にならない。
ゴミを入れるポストだろうか。いやいや、ゴミポストにセミの死骸を入れたところで業者さんが回収してくれるわけでもないし、他の住人にも迷惑すぎる。
向かいの家のちょっと広めの植え込みが一番アリに分解してもらうにはよいロケーションのように思えたが、もちろんそんなことはできるわけがない。
もう家の脇の小さな排水溝に隠してしまうか。いやいや、いずれ自然に帰るとはいえ、落ち葉がたまれば詰まるのが排水口である。そんなナマモノを捨てるわけにはいかない。
どこにもない。街にはセミが土に帰れる、その土がない。
思えば奈良の田舎にはセミが落ちていれば適当に放り投げられそうなところがたくさんあった。田んぼやあぜ道、小さなものじゃ絶対つまらないくらい大きな用水路(これはこれで危ないんだけど)、そして小川。もちろんそんな懐の深いところは周りをいくら見渡してもなかった。
僕は意を決して自分の家のポストを開け、昼に放り込まれたであろう不動産屋のチラシを取り出すと丸めてセミを包んで家に帰り、キッチンのゴミ箱に彼を隠し、合掌してフタを閉めた。
妻は20分後に帰ってきた。彼女はゴミ箱の中にひとつの命を宿していたものがひっそりと眠っていることを知らない。それは木曜日に、誰にも知られることなく、そのまま袋ごと運ばれていき、どこかで灰も残らないほどの炎で焼かれ、天に帰る。それでいい。
晩ごはんを食べながら、僕はもう一度妻の背後でひっそりと眠るそれに、心のなかで手を合わせた。